好奇心で薬を始め、好奇心のおかげでやめられている。

​渋谷ダルク:利用者の体験談

T(44歳)

落ち着きのない子ども

 

 僕は好奇心旺盛で、寂しがり屋だ。薬の使用にも回復にも、少なからずこれが関係していると思う。

 

 もともと、幼少の頃から落ち着きのない子どもだった。よく喋るうえに、いろんなことに次々関心を持つので、「何で?」「何で?」とよく周囲を質問責めにした。一つの場所に長くいられないので、学校から帰ってきても、公園に行ったり自転車で走り回ったりして、いつも外で元気いっぱいに遊んでいた記憶がある。

 

 一方では、お母さん子でもあった。僕が覚えている限り父はいつも家でアルコールを飲んでいたから、母は昼も夜も働いていた。だから会えると嬉しくて、どこに行くのもついて行った。自転車の後ろにのっけてもらい、スーパーへ行くのが楽しみだった。

 後で知ったことだが、母が流産した後に生まれた待望の男の子が僕であり、姉2人と比べても、甘えさせてくれていた。父も僕を溺愛してくれて、そんな父が好きだった。母に手をあげることがあり、それを見るのは嫌だったが、憎しみはまったくない。

 

 父は僕が中学のときに亡くなった。同じ頃、祖母も亡くなった。働きづめの母に代わり、家のことはすべて祖母が面倒をみてくれていたので、父よりも祖母の死の方が僕にはショックだった。

一緒に遊んでくれる友だち

 

 そんな中、突然、転校した。知らない人たちの中に入っていくことが、怖かったのを覚えている。それを隠すため、無理して元気を装い、友人を作ることに必死だった。家に帰っても誰もいないから、外で一緒に遊んでくれる友人を探した。

 

 と言っても、冬はスキー、夏は海。もぐってウニを取って食べたりと、今思うと子どもらしい遊びだった。率先してやることで、みんながついて来てくれた。夜遊びをするようになったのは、高校に入ってからだ。半年でやめ、ゲームセンターに入り浸り、バイクを盗んで乗り回したり、友だちの家を泊まり歩いたりした。母親に会うのはたまに家に帰って小遣いをもらうときと、何か問題を起こしてあやまりに行ってもらうときだけ。働くとか、将来のこととか、何も考えずただひたすら遊んで楽しんでいた。

なんだ、こんなものか

 

 車の免許を取ってからは、どこへでも行けるようになった。やっぱり海や山が好きで、アウトドアに夢中になった。そんな頃、大麻に出会った。20歳のときだ。先輩から譲り受け、友だちとみんなで吸った。楽しかったことを覚えている。でも、ときどきみんなとやるだけで、ハマるほどではなかった。

 

 その8年後に、覚せい剤を使った。床屋に行ったとき、店主と大麻の話になって、「覚せい剤もあるよ、やってみる?」と言われ、店が終わった後に奥で打ってもらったのである。覚せい剤はさぞかしすごいもんなんだろうと期待と不安が入り混じったが、そのときは意外にも「こんなものか」と思って終わった。

 

覚せい剤との再会

 

 再び覚せい剤に出合ったのは、36歳の時だった。周囲にやっている人が何人かいて、勧められて使ってみた。すると、目の前が開けたようにすべてが明るくなって、世界が変わった。子どもの頃から集中力がなくていつも注意されていた自分が、何をしても集中できた。夢のような感覚で、集中するってこういうことかとわかり、楽しくてたまらなかった。

 

 誰かが持っているときにたまに分けてもらうくらいの使用頻度だったが、精神的には薬物への依存が始まっていたのかもしれない。

 

 当時、同年代の友人はみな結婚して家庭を持ち、子どももできたりしてそれぞれの人生を歩み出していた。遊びほうけていた僕はと言えば、気づいたら一緒にいるのは年下ばかりになっていて、さみしさのようなものを感じていた。僕1人が成長していなかっただけだと今はわかるが、年下に囲まれ小山の大将でいることで、現実を忘れようとしていた。

逮捕、そして受刑

 

 そろそろ落ち着かねばと思い、40になる前に結婚した。ただ頭の中は子どものままだったから、束縛されるのが嫌で外で遊んできては怒られることの繰り返しだった。そして間もなく、覚せい剤の所持・使用で逮捕された。

 

 妻は薬のことを知らなかったので、大きなショックを受けていた。判決は執行猶予だったが、本気、本腰で人生をやり直さないとダメだと痛感した。もし再び使って捕まってしまったら、次は刑務所だ。そうならないために、地元の友人や知り合いから離れようと決めた。妻と2人で新しい土地へ行き、まともな生活を送るのだ、と。

 

 ところが思い切って新しい土地に移り、心機一転を図っても、そう簡単にはいかなかった。知り合いが誰もおらず、妻と2人だけという生活に孤独感を抱いた。仕事がなかなか決まらず、そのこともプレッシャーになった。頭と体が刺激を求めているのがわかった。パチンコで憂さを晴らすだけでは足りなかった。車を飛ばして地元の友人に会いに行くようになった。

 

 地元に戻れば、当然、魔の手の誘惑もある。断わるときもあったが、つい手を出してしまうこともあって、少しずつ使う回数が増えていった。そんな時である。誰がばらしたのか知らないが、警察が家に来て2度目の逮捕となった。

 

 目の前で妻が泣いている姿を見て、改めてとんでもないことをしてしまったと思った。僕自身ショック状態で、これからどうなってしまうのかという不安で頭がいっぱいだった。

 

 判決は2年10ヵ月の懲役。「ハマッている」というほど、覚せい剤を使っていたわけではなかった。でも、やってしまったことに対し、素直に罪を償おうという気持ちはあった。妻が待ってくれているという身勝手な考えもあったと思う。後悔はあっても、持ち前の好奇心が出てきて、刑務所がどんなところか見てみようとすら考えた。

 

 実際は、1年目に妻から「離婚したい」と手紙が来た。誰より僕の結婚を喜んでくれた母の代筆だった。

 

時計の針が止まったまま

 

 もう2度とやらないぞと思い出所して、地元に戻った。待っていてくれた友人たちが、出所の歓迎会を開いてくれた。何度も面会に来てくれた人、「もう二度と手を出すなよ」と本気で叱ってくれた人。みんな友人思いのすごくいい人ばかりだったが、2年10ヵ月の月日の長さを目の当たりにした感じだった。

 

 みんながあまりにもきらきらした大人に見えて、自己憐憫に陥った。「ご飯を食べに行こうよ」と言われると、立場が逆転した気がした。実際には自分が誘うこともあったのに、そうは思えなかった。

 

 人をさけ、1人でいる時間が多くなった。おのずと薬を再使用し、その後ろめたさからまた薬を使った。社会の変化の早さに戸惑い、ついていけない。現実に耐え得るだけの精神力がなくなっていたんだと思う。そのことに気づいたのは、再び受刑してからだった。

薬物依存離脱指導

 

 3度目の逮捕であっと言う間に刑務所に舞い戻り、1年6ヵ月過ごした。今思うと、僕のターニングポイントとなったのは、受刑中に受けた薬物依存離脱指導だった。刑務所という閉鎖された場所で、薬物教育なんてものがあること自体、驚きだった。薬物の使用は自分の意志だけの問題であって、勉強の対象になるなんて思ってもみなかったのだ。

 

 持ち前の好奇心が動き出した。「参加するか」と聞かれたら、NOと言うわけがない。しかも寂しがり屋の自分にとって、私語も話せない世界の中で、自由に話すことができる薬物依存離脱指導のミーティングは魅力だった。

 

 近隣のダルクの人が講師として来ていたのもよかった。手紙を書いてみたら、返事が来た。刑務所の生活では、手紙は楽しみの一つだ。だから、手紙一つでがんばれてしまうところがあって、ありがたかった。

 

 と言っても、当時はミーティングに意味など見出せなかった。自分の恥をさらして何がいいんだと思ったし、手紙のやりとりもただの暇つぶしに近かった。何より、もう薬を使うつもりはなかったし、これは自分自身の問題だから、自分で解決するものだと思っていたのだ。

刑務所仲間に会いに

 

 にも関わらず、僕は出所後にすぐNAへ行った。親を安心させるためもあったが、薬物依存離脱指導で一緒だった仲間たちと「出たらNAで会おう」と約束していたので、会えると思っていたのだ。ところが、誰もいなかった。

 

 次は来るかな?と思い、行ってみた。いないので、次こそ来るかな?と思い、行ってみた。やはりおらず、そうこうしているうちに、いたたまれなくて薬をやりたい気持ちがむくむくと出てきて買ってしまい、ちょっと使ってしまった。

 

誰にも言えないまま

 

 なぜやりたかったのか? 周囲と自分を比べ劣等感を強く抱いたと同時に、正直になることをプライドが邪魔したからだと思う。薬のことは、誰にも話せなかった。

 

 2度も服役し、その間、何も生み出していない自分がつらかった。世間に追いつこうと思っても、そう簡単に追いつけない。そもそも追いつけるわけがないのに、追いつけない自分自身に対し、苛立ちや腹立たしさを感じていた。

 

 悔しくて、涙が出た。相談できる人はたくさんいたはずなのに、できなかったのは、そうすれば昔の自分のイメージが崩れてしまうと僕自身が思っていたからだ。薬のことも含めて、素の自分を出せるのは、もう刑務所仲間しかいないと思っていた。

 

 ところが、NAに数回行ってみても、やっぱり誰も来ない。会場にいる人たちはかっこ悪く見えたし、ミーティング中も、よくこんなことを話せるなとバカにしているうち時間が過ぎるだけだった。

 

 ただ、誰一人として薬を誘う人も、頼む人もいないのが不思議だった。でもそれだけに、薬を買ってちょっと使ってしまったとき、NAの人にバレてしまうのではないかと思った。

 

ダルク

 

 1人だけ僕の話をよく聞いてくれる人がいたので、思い切ってその人に「薬を買ってしまった」と話してみた。動揺する素振りも見せず、「残りがあるんなら、今すぐトイレに流した方がいいよ」と言ってくれ、どうしてだかすごく楽になった。

 

 その人はダルクの入寮者で、ダルクについても教えてくれた。人生を取り戻そうとすることばかり考えていたけれど、薬を取り払わなければ何も始まらないのだとそのとき気づかされた。

 

 ダルクでは、電話も持てないし、遊べないし、対人関係も楽ではないという。それでもダルクに行った方がいいのかもしれないと頭では思っても、行動に移せない自分がいた。明日行こう、明日行こうと思っているうちに、2週間が過ぎた。思い腰を上げたのは、年末だったからだ。今年で何かを終わらせて、来年から新しく始めなければ、と。

 

 もともとそんなに使っていたわけではない。ダルクなんかなくてもやめられると思ったが、ここでも僕の好奇心旺盛が幸いして、どんなところか見るだけでも見てこよう、嫌だったら帰ってこようと考えた。

 ところがいざダルクへ行くと、「今はいっぱいで入寮は無理です」と断わられてしまい、焦った。そうなると、おかしなもので逆に「1ヵ月だけでも体験できませんか?」と食い下がった。すると遠方の他のダルクへ行くことを提案された。その場所がまた行ってみたかったところだったので、躊躇することなく「はい、わかりました」と答えていた。

 

 この年になって、新しい土地でやってみるのもいいかなぁと思った。まずは社会復帰の前に、断薬をしてみよう。そして何かを見つけるんだ! そんな思いで地元を後にした。こうして僕は、渋谷ダルクにつながった。

 

初めての精神科入院

 

 長旅の末、渋谷ダルクの寮に到着すると、何とケンカの真っ最中だった。えらいとこに来たなと思うと同時に、「面白いとこだな、さっそくやっている」とあきれた。おかげで自分の不安よりも「こいつら大丈夫か?」と人の心配をするところから始まった。

 

 ダルクのイメージは、最初は合宿みたいな感じだった。でも、すぐに「12ステップ(※)とか何とか言って、これは何かの宗教か? こんなとこにはいられない」と変わった。しかも入寮してすぐ、解毒入院を勧められた。子どものときから健康優良児で通してきたのに、初めての入院が精神科病院なんて、到底受け入れられなかった。

 

 覚せい剤だって、まさか自分が使うとは思ってもいなかった。刑務所だって、まさか自分が入るなんて思っていなかった。でも、それより大きなショックを受けたのが、この精神科入院だったのだ。屈辱だった。しかし出て行くにしても、行く場所もなくお金もない。仕方なく精神科病院へ行くしかなかった。

 

 ところが、である。入院生活は、ダルクと比べたら思いのほか快適だった。つらかったのは、姉が面会に来たときくらいだ。心配をかけまいと無理して健康であることをアピールしたが、「いったいどうしちゃったの? 何があったの?」と泣き崩れる姉を見て罪悪感に苛まれた。

 

 とにかく、ダルクにだけは戻るのはやめよう。退院と同時に縁を切ろう。そう思っていたのに、僕は今もダルクにいる。初めて来てから、ちょうど1年7ヵ月が経つ。

 

素の自分でいること

 

 ダルクに残ったのは、退寮の話が進まなかったこともある。施設長に「まだ何も始めていないのに、突発的な行動を取ると、かえって悪いほうに進むよ」と言われ、確かにそうだな、まだ何も始めてないな、何もわからないまま動くの危険だな、と思った。そうこうして、日々のミーティングでこっぱずかしい話をしていくうち、いつの間にか人の話を聴けるようになっていった。

 

 僕がダルクで経験しているのは、共有して正直につきあうこと、素の自分になることだ。実は、それはとても大変なことだともわかった。ここは、僕も含めかっこ悪い人たちの集団だ。どんなに強そうに見えても、素の人間は弱い。でもそれを表に出すのは、すごく勇気がいる。だからその勇気こそが強さなのだと今はわかる。

 

 素の自分でいられるようになったのは、1年くらい経ってからだったと思う。プログラムに関しては、いまだにわからないことも多い。「スピリチュアル」(※)の意味もよくわからないし、無理にわかろうともしていない。でも、不思議と毎日、黙想だけはしているし、過去を掘り下げて話すことによって、過去の自分を見つめ返すことができているのは間違いない。

 

ダルクで何を得たか?

 

 仲間たちと関わり、話を聴いて、自分を振り返るといろいろなことに気づく。身近な家族や友人たちが、僕をどんなふうに見ていたか、僕は彼らにどんな思いをさせたか。きっとこんなふうに思っていたのだろう、こんなふうに心配していたのかもしれない……。今になって、そんなことを考える。

 

 僕という人間は、周りに人がいて当たり前の環境の中で育ち、生きてきたけれど、実はとても寂しがり屋なんだということにも気づかされた。身近にいて僕を大切にしてくれる人ほど、ぞんざいに扱った。一緒にいることが当たり前すぎたから、その大切さに気づかなかった。一方で、ちょっと距離のある人に対しては、かっこつけて大切に扱った。僕っていうのは、そういう人間なんだ、と。

 

 でも大切なことには、まだ気づけていない気がする。だからもし「ダルクで得たものは何か?」と聞かれたら、今のところ「失ったものが得たもの」としか答えようがない。その大切さを知った。

 

 正直、こんなに面倒くさくて時間のかかる作業は、なるべくならしたくない。それでも、薬物が入っていないきれいな体である今こそ、正直者になっておこうかなと思っている。ひとたび薬を入れれば、放っておいても、ごまかすし、嘘もつく。また、自主的に毎週末に走ることや、筋トレを続けたおかげで、体が健康でないと心も健康になれないとわかった。これは今後も必ず自分の役に立つと感じている。

 

 数ヵ月前、中学校の予防教育で体験談を話した。全校生徒の前で自分の話をするのはすごく勇気がいったが、その倍以上の勇気ももらった。体験を伝えることも、今後自分の役に立つと思う。

 

 そう考えると、僕はここで、お金では得られない大切なものを得ているのかもしれない。ダルクの生活が長くなると、役割も増える。だからここにいる間、自分がやれることは、嫌なことも面倒くさいことも、すべてやろうと今は考えている。新しいことに対し、やるかやらないかで悩んだり、やらない言い訳を考えるより、引き受ける方が僕の性にあっている。第一、悩む時間がもったいない。すでにたくさんの時間を失ってきたのだから。

 

 

体験談の理由

 

 最後になるけれど、この体験談の話を引き受けた理由について少し書いておきたい。

 

 実はチャレンジ精神から、薬物の問題に悩んでいる人のためになるなら……と、引き受けたわけではない。薬物の問題を持つ当事者よりも、身近にいて苦しんでいる人に対して伝えたいと思った。つまり、これは僕自身の懺悔でもあるのだ。

 

 当事者は薬を使って気持ちいいだけだけど、身近な人たちは違う。薬代のためにお金を貸した人、家の中で暴れるのを必死に抑えていた人、逮捕されて面会したりして、何度も大変な思いをした人、それでも当事者を大切に思ってくれている人……。そうした周囲の人たちが、どれほど大切なのか、また大切な存在だったのか、今になってわかる。失った信頼を取り戻すには、行動で示すしかない。自己中心的な考えを捨てていきたいと思う。僕は今、そうして再び生き直す準備をしているところです。

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