​渋谷ダルク:修了者の体験談

40年使ってきたけど、もういいや。このままやめちゃおう。
J(64歳)
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レコード・デビュー

 

 小学生の頃、ベンジンはいい匂いだなぁと思ったことがある。今考えると、もともと薬物依存になりやすいタイプだったのかもしれない。初めてのドラッグは中3のとき、先輩のバンドに誘われてやったプラボンドだった。これは10回くらい使って気持ち悪くなったのでやめた。しかし結局40年以上、いろんなドラッグを使ったりやめたりを繰り返した。

 

 私の職業はミュージシャンである。小5のとき、先輩にギターを借りてベンチャーズを覚えたのが始まりだ。

 

 中学に入ってからは、新聞配達のバイトをしてギターを買った。お金が足りずフォークギターだったが、自分のギターを持てたことが嬉しかった。当時、私は水泳部の選手だった。吸い始めたタバコの影響もあって、タイムががた落ちになり、スポーツをあきらめ音楽の道を進むことに決めたのだった。

 

 いちばん「勉強」したのは、高校受験前だった。先輩とバンドを組んでいて、テープレコーダーを壊れるほど使ってクリームやジミー・ヘンドリックスをコピーした。あの頃は、学校群というのがあって、受験できる高校は限られていた。本当はかわいい女の子がたくさんいる近くの高校へ行きたかったが、私が受験できたのは、都内で初の「紛争校」。学生運動が真っ盛りの時期で、敷地内には立て看板が置かれ、ヘルメットを被った人たちが出入りしていた。しかも畑の中の学校だったため、いつも土埃が舞っていて、とうてい行く気になどなれなかった。

 

 とは言え、高校でバンド仲間となる同級生と出合った。生活の主体はもちろん音楽。中学のときからの先輩メンバーがたまたま東京電機大学の軽音部にいて、自分も特別会員にしてもらい毎日のように出入りしていた。そんな中、高校2年で病気になり、1ヵ月休んで単位が足りなくなった。結局、定時制に編入し、昼間は予備校、夜は学校に通うことになった。

 

 プロになることを決めたのは、その頃だ。過激な大学紛争が続いていて、大学に入学してもまともに授業が行なわれていない時代だった。ちょうどバンド仲間の父親が大学教授だったため、両親と一緒に展望を聞きに行ったら、「大学に行っても仕方ない」と言われた。ドラムとギターとボーカルはいたので、ミュージックライフを通してベースを探し、レコードデビューが決まった。1971年、19歳のときだった。

音楽とドラッグ

 

 1970年代は、日本でもヒッピーブームの真っ最中だった。アメリカの若者が、自国の戦いであるベトナム戦争に反対していることに共感すると同時に、それとセットになっていたドラッグ文化をごく自然に受け入れていった。もともとロックに限らずジャズ界でも、ドラッグと音楽はセットになっていた。と言っても、ごく身近なところでは、日常的にドラッグを使っている人はまだいなかったが。

 

 きっかけは、あるライブハウスの客として来ていた留学生の部屋に遊びに行ったことである。ハシシをもらって吸い、ボーっとした。その後2、3年かけて、徐々にいろんな薬物が潤沢に手に入るようになっていった。最初のバンドを24歳でいったんやめる頃には、ヘロイン以外の薬物はすべてやっていた。だんだんハードな薬物を好むようになり、ついには抵抗があった覚せい剤にも手を出した。そうこうしているうち、1回目の逮捕となった。

もうやってられない

 

 執行猶予判決となり、10年ほどは覚せい剤を使わなかった。「やめよう」という意識はなかったが、何となく手が出なかったのだ。ところが、仕事で知り合ったミュージシャンが連れて行ってくれたスタジオで、再び覚せい剤に出合った。使おうかどうしようか迷った。前にやめた経験があったので、大丈夫だと思い、使ってみた。そしてやめられなくなった。

 

 手を出した背景には、シラフでいると頭がおかしくなりそうな状況もあった。時はバブル。仕事はタイアップの話ばかりで、会議に出ても、プロデューサーもディレクターもスポンサーも、音楽性などどうでもいいといった姿勢だった。このまま業界にいるのがきつくなっていたとき、覚せい剤は格好の気分転換となった。

 

 あの頃、周囲にも覚せい剤を使っている人がたくさんいたし、価格も安かった。しかし2000年に入る頃には、だんだんと下火になってアルコールに移行する人が増えた。私は酒が飲めない。自分もいい加減やめたいな、やめようかなと思っていたが、時すでに遅し。覚せい剤がないと動けない体になっていた。

 

薬物依存

 

 それから十数年は、仕方なく使う状態だった。何度かやめようとしたが、1ヵ月やめても2ヵ月やめても、頭に鉛を入れているようにしんどく、体がだるくて動けず復活できない。床ずれができてしまうほどで、動こうとしたら覚せい剤を打つしかなかった。

 

 喘息で大発作を起こして入院しても、糖尿病になっても、脳卒中になっても使った。その頃には、覚せい剤の価格も高騰し経済的にも大変だった。しかも同じ値段でも質がまちまちなのだ。当たり前だが返品も交換もできず、「いつかやめたい」という気持ちがどんどん強くなっていった。この間、2度目の逮捕があった。ちょうど新しい裁判制度が始まったときで、前の逮捕から20年経っていたこともあり、即決裁判が行なわれ、1週間で釈放された。

3度目の逮捕

 

 3度目の逮捕は、それから5年後である。59歳のときだった。薬を買いに行ったら売人がマークされていて、売人ではなく購入した私の方が逮捕されたのである。路上での逮捕は、きつかった。なんて無様なのか。しかも刑務所行きは確実だ。それまで、「俺は大丈夫、逮捕されない」と心のどこかで思っていたので、大変なショックを受けた。

 

 ところがこの逮捕が、自分の転機になった。留置所に入れられ、覚せい剤を使えないので、また起き上がれなくなる状態になると恐れていたら、何と3日で動けるようになったのである。体にだるさがない。目もぱっちり開く。あれ? どういうことだ? でもだったらこのままやめてしまうか? と。刑務所に行くのは嫌だけど、このまま続けて60を過ぎてパクられるなんてことがあったら、格好悪いと思う気持ちもあった。今思うと、路上で逮捕されたショックがそれほど大きかったのかもしれない。

 

このままやめてしまおう

 

 受刑中、俺はそんなに悪いことをしたのか? と問う気持ちもあった。もちろん法律で禁止されていることをしたのだから、逮捕されても仕方ないのだが、何が悪いのか明確な理由がわからないまま、もやもやした気持ちを抱えていた。

 

 そんな頃、薬物依存離脱指導を受けた。名前を「さん」づけで呼ばれるのはこの時間だけだ。そこでやっと自分の人権を取り戻したような気がした。その効果もあったのか、「もう還暦になったし、ちょうどいいからこのままやめてしまおう」と決めた。裁判のとき、ライブハウスで嘆願書用の書名を集めてくれたバンドのメンバーが、たまたまダルクを知っており、ダルクの存在を知った。手紙で「行こうかな」と連絡すると、紹介までしてくれた。

 

 弁護士には、「出所したら必ず行ってくださいね」と念を押された。当時、私は制度のことをよく知らなかったので、お金がないから無理だと思っていたが、生活保護を受ければ大丈夫だという。だったら行ってみようと思い、ダルクへの入寮を決めた。

渋谷ダルクへ

 

 出所当日は、バンドのメンバーとダルクスタッフが迎えに来てくれた。荷物を持って外に出たら、「振り向いたらダメだよ」「何か白いものを食べましょう」と言われ、何を言っているんだと思った。2度と戻らないためのジンクスがあるらしい。

 

 車で警察庁へ行き、仮釈放の手続きをした。何か食べたいものはあるかと聞かれ、焼肉を食べてダルクへ行った。

 

 その日はちょうどダルクの合同クリスマス会で、「これはいったい何の集団なんだ?」と驚いた。夜に寮へ入寮し、翌日、渋谷ダルクに行ったときは、きれいなところで安心した。

 

 実は着いてから知ったのだが、何の因果か、寮は私が最初に覚せい剤を使ったスタジオのすぐ近くだった。まったくの偶然だが、何か運命的なものを感じ、人生の裏と表とは、こういうことなのかと考えたりした。何とも言えない気持ちだった。でもそのおかげか、ダルク生活でも不思議と孤独は感じなかった。もちろん昔の仲間に会いになんて行っていない。観念して、それなりに真面目にプログラムを受けたのだ。

 

意外と大丈夫だった

 

 最初の頃は、街中を歩けることだけでもうれしかった。ダルクでの生活は、寮の階段がきついくらいで、思ったよりしんどくなかった。12ステップ(※)のプログラムについても、違和感はまったくなかった。一つ印象的だったのは、「恨んでいる人のリスト」だ。どう考えても、書けなかったのだ。人に恨まれることはあっても、自分が恨んでいる人はどうしても思いつかなかった。いまだにいない。そもそも文句など言える義理じゃないし、と。

 

 当初9ヵ月の予定で入ったつもりだったが、日々淡々と過ごすうち、気づいたら1年経っても入寮していた。あれ? どういうことだ? と思っていたら、スタッフとの話し合いの中で、最初の社会復帰ステップとしてライブへ行くことがOKになった。バンドのメンバーに会って「いつ出てくるの?」と言われた。仕事の依頼も溜まっているとのことで、これ以上は引き伸ばせないと思っていたら、その後とんとん拍子で退寮への道が開けた。自立のための賃貸物件も、バンド仲間に不動産屋を紹介してもらい、スムーズに決まった。

 

プログラムを終えてからのこと

 

 逮捕や受刑はショックだったが、今振り返ってみると、私は司法システムに助けられたと思う。「ちきしょう、俺は悪くない!」と思うことは簡単だが、それでは同じことの繰り返しになる。受刑からダルクを出るまでの4年半は、私にとって自分のことを考える時間になったのは確かだ。本や小説も山ほど読んだ。人生であんなに本を読んだのは初めて。無為に過ぎた時間もあるけれど、得たものもあった時間だった。

 

 ダルクの寮を出てからも、しばらくは通所を続けた。卒業してからも、たまに顔を出したりした。興味深いことに、ダルクにいる間より、社会に出てからの方が自己肯定感が下がり、プログラムを活用するようになった。出たばかりの頃は、「自分はそんなに人に迷惑はかけていない」と思っていたが、日々の生活のふとしたことで、「あ!あのときは悪いことしたなぁ」と思い出すのだ。

 

 以前なら「過去のことはしょうがない」と思ったが、「とにかく埋め合わせ(※)をしないとな」と思うようになった。誰かと会うたびに「あのときは申し訳なかった」とあやまったり、「あのときはありがとう」と伝えることが多くなった。

 

 いろいろなことを体験し、60を過ぎ、ものごとを俯瞰することが、多少はできるようになっているのだと思う。自分のことをしょうもない奴だなと思うこともある。しかし、今の自分には自由な時間がある。何もすることがないときは、ラジオのニュースを聞く。ラジオはテレビよりも情報量が多く、世の中の仕組みや情勢をとらえやすい。そうして日本の将来について考えてみたりするのは、40歳や50歳の自分、ましてや薬を使っていた自分ではできなかったことだ。

 

 音楽についても、見方が広がった。音楽は、聴く人がいないと成立しないから、自分ひとりでは何もできない。「いいサウンドを作りたかったら、いい人間関係を作ることが大切だ」と言われたことがあるが、今はその意味がわかる。また、かつての脳卒中の後遺症で思うように指が動かない中、実は休符もりっぱな音符なのだと気づいた。休みも音楽の一部なのだから、必要なところで、必要な音を出せばいいのだ。バンドでは他にメンバーがいることもあるが、弾かなくても音楽はできるとわかり、昔みたいにただがむしゃらに弾き続けることはしなくなった。

 

 よくも悪くも、薬を使っていたから気づいたことはあるし、依存症にならなければ気づかなかったことも、いろいろある。薬を使ったことは、決して後悔はしていない。だが、もう気が済んだ。あの時点では必要なものだったかもしれないが、今は必要ない。

 

 自分がこうなってわかったが、バンド仲間の中には自助グループのメンバーもいる。キータッグ(※)を見せ合ってハグしたりなんてことも、意外とあり得るのだ。アルコールや薬物は、やめたいと望まなければ、やめられない。けれどもやめたいと望めば、必ずやめられる。

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